【特別編】クリスマスの想い出

こんにちは!会いに行ける町工場社長、栗原です!

え?もう、2018年終わっちゃうんですか?あっという間に12月ですよ!自分、今年は、孫が生まれて初めてのクリスマスを迎えます。ずいぶん久しぶりに、デパートのおもちゃ売り場に出かけてみたり、なんだか、ちょっと浮足立っています(笑)

そうそう、クリスマスといえば、30数年前のあの日のことを思い出します。バブル景気はまだ訪れていませんでしたが、イブの夜、若いカップルが、高級レストランを競って予約する、なんてことが定着し始めていました、そんなころの話です。

ここから、ちょっと、ショートストーリーを…

1985年12月24日。

朝、出勤の身支度に時間をかけた。悩んだ末に決めた服装は、コムサデモードの肩幅の広いジャケット。小さな襟のドレスシャツに、紺の無地の細いネクタイ。髪は短く刈り上げて、もみあげも極端に短い。そのくせ、前髪だけは長く額に流している。チェッカーズのフミヤに似ていると言われて、その気になっていたのだ。

仕事はいつもより捗った。定時。デスクで煙草を吸う課長に頭を下げると、一目散でロッカールームへ。作業着から朝と同じ格好に戻ると、足首に届きそうな長さのトレンチコートを羽織り、肩にはソックスと色を合わせた赤いセーターをマフラー代わりに乗せる。会社の玄関を出て、待ち合わせ場所に急いだ。遅刻は許されない。やっとの思いで予約を入れた赤坂のフレンチレストラン。二部制のため、決められた時間に食事を終えなくてはならないシステムらしい。

待ち合わせの相手とは、翌年の秋の結婚が決まっている。独身最後のクリスマスイブは、ちょっと背伸びをしてでも、ビシッと決めなくてはならない、そんな気になっていた。

彼女のヘアスタイルは、自分好みのソバージュ。羽織ったコートは、いかにも銀行勤めらしい地味なものだったが、その下は、細かい花柄のスカート丈が長いワンピース。前回のデートで、なじみのデザイナーズブランドの店に出向いて買ったものだ。予約の時間にはなんとか間に合った。彼女をエスコートし、店の入り口でコートを預けると、JUNですね!と店員が微笑む。

電子内視鏡の開発競争

自分は、医療用内視鏡の専門メーカー、株式会社町田製作所に勤める駆け出しの技術者だった。当時はまだ、内視鏡はファイバースコープと呼ばれており、その名の通り、ガラス繊維を束ねた光学式が主流だったが、超小型CCDカメラを先端部に仕込んだ電子内視鏡の開発を、各メーカーが挙ってスタートさせていた時期である。

町田製作所は、従業員100名ほどの中小企業。業界ライバルには、オリンパスをはじめとする、名だたる光学メーカーが名を連ねており、会社の規模では大きく水をあけられ、自社の力だけでは開発競争に勝ち残るのは難しい状況にあったはずだ。そこに触手を伸ばしてきたのは、他の医療機器の分野では巨大メーカーである東芝。町田製作所には、以前に超音波内視鏡の開発に技術協力をした経緯もあり、白羽の矢を立て、電子機器メーカーとしての優位性を武器に、内視鏡分野でもトップシェアを狙うべく本格的な参入を決めたのだ。

東芝は、医療機器の製造拠点、那須工場に精鋭の技術者を集め、開発チームを作った。総勢は、町田製作所の全社員数とほぼ同じという規模。一方の町田製作所。社長は、技術提供ではなく、あくまで共同開発であり、内視鏡の老舗メーカーとして、町田ブランド製品を世に送り出すのだと、全社員を前に胸を張った。しかし、その実務に当たる製造部開発課は、課長の宮城と自分という、たった二人の体制である。

開発が始まってからこの半年間、まさに不眠不休で、開けても暮れても設計、試作テスト、また図面描きと、徹夜続きの日々が続いた。上司と部下という間柄ではあったが、宮城とはウマが合う。図面描きの作業中は、斜めに立ち上がる製図板越しに目を合わせずとも、他愛もない話をしながら、ひたすら、製図ペンを走らせ続けていた。

実は、彼女との出会いも、宮城課長が飲み会に何人かの地元の後輩を呼んだのがきっかけだった。仕事中にも、おい、その後どうした?などとにやけ顔で聞いてきたりした。そんなことだったので、忙しい最中にも、クリスマスデートのために、今日だけは早く帰らせてほしいと切り出すのに、それほどの抵抗はなかった。

ディナーの後は

急かされるようにしてディナーは終わり、思わず動悸が激しくなるような金額の支払いを済ませ、店を出たところで、彼女にごめんと告げた。怒った顔の彼女をその場に残して、会社へ戻る。駒込駅から少し歩けば、静かな街並みに入り込む。六義園のレンガ塀沿いの小道に入ると、自然と小走りに。高級マンションに挟まれた小さな建物の前で、2階の窓に明かりがあることを確かめる。

宮城は、戻ってきた自分を見ても驚きもせず、いつものように、どうだった?楽しんできたか?と、にやけ顔で聞く。自分は、ワインのテイスティングでドキドキしたとか、メインのステーキの肉は、柔らかくて美味かったけど、ずいぶん小さかったとか、と照れ笑いで返す。いつの間にか、いつもの位置について、いつも通りの作業をし始め、そのまま朝を迎えた。

その後、東芝製の電子内視鏡は、華々しくデビューを果たす。しかし、町田製作所の名がその冠につくことはなかった。共同開発を謳ったプロジェクトだったが、一年近くの間、夜を徹して書き上げた大量の図面は、1枚いくらという計算のもと、東芝へ売られたのだ。そして、一気に競争が激化した内視鏡業界ではあったが、結果としては、どのメーカーもオリンパスの牙城を崩すには至らず、威信をかけたはずの東芝は、撤退を余儀なくされる。

数年ののち、町田製作所は、独自の技術力で特殊仕様の医療機器開発で盛り返す。宮城はその分野でも手腕を発揮したが、自分はすでに退職し、家業を継ぐ道を選んでいた。

ずいぶん昔の記憶に頼って、散文を書いてみました。事実と違う部分もあるかもしれません。数少ない、自分の関わった、ものづくりの歴史のほんの端くれの話です。おかしなところがあっても、失笑に伏していただければ幸いです。

それでは、皆さん、良いお年をお迎えください。

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