自社のものづくりの原点を探る~創業者たる父の一周忌にあたり~

こんにちは!ものづくりコミュニティ・MAKERSLINKの栗原です。

今日(11月30日、この原稿の締め切り日…)は、亡き父親の命日です。ちょうど、1年経ちました。病が発覚して病院に入ってたった3カ月。あっけなく逝ってしまったということもあり、なんだかこの1年、あっという間でした。

写真は、入院先の病院から一時帰宅を許されて、機械に向かう父。ほんとに亡くなる直前まで機械の前に立ち続けた、根っからの職人でした。病室を片付けた際には、枕元から図面が出てきたほど、最後の最後まで頭の中は仕事でいっぱいだったようです。永年連れ添った母の口からは、感謝の手紙の一枚も出てきやしないと、ため息が漏れていましたが。

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こちらは、私が図面を描いて、父が加工した最後の製品。私にとっての思い出の品です。特殊な送りねじになっているのですが、培った経験を基にして初めて実現できた加工です。

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このような機会ですので、今回は、ちょっと趣きを変えて、弊社のものづくりの原点を探ってみることにいたします。もし、この記事が、これからのこの国のものづくりを支えていく若い世代の皆さんにとって、少しでも参考になれば幸いです。

金属切削加工一筋に約50年

さて、うちの会社、(株)栗原精機の沿革を見ると、昭和43年に設立となっています。この年に正式に独立をして創業したということになりますが、父は、その数年前から会社勤めをしながら、小さな卓上旋盤を手に入れ、軒先を小屋にして仕事をし始めていました。それから、金属切削加工一筋に約50年です。

今はあまり見かけなくなったかもしれませんが、その昔、折り畳み傘の持ち手のところに、カラフルなアルミのキャップが被せてあったのを覚えている方もいらっしゃるかと。創業当時、あれをよく作っていましたね。うちは外周に旋盤でシュッと飾りの加工を入れる仕事をしていました。

そんな内職のような仕事を家族総出で、毎日遅くまでこなして生計を立てていたんです。たしか母親はその頃も、日本刺繍の副業を持っていたはずで、幼いころの記憶は、両親はずっと働いているというものでした。

そのうちに仕事が少しずつ増えていったんでしょう。父は決断をして自宅の半分を土間に改築して、工場にしてしまいました。六畳と四畳半、二間しかない自宅をです。寝ている枕の向こう側、ふすま一枚隔てて機械が稼働している、そんな生活でした。

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まあ、そんな無茶の甲斐あってか、数年のうちに現在の場所に移転して、本格的な工場を建設するに至りました。世の中、景気も良かったんですね。後先考えずに仕事さえしていれば、儲けは必ずついてくる。そんな感じだったのでしょう。

昭和57年にNC装置付きの加工機、第一号(スター精密、自動旋盤、SNC25)を導入しています。父は40代半ばだったでしょうか。機械操作の講習に行ったら、周りは親子ほど年の差のある若者ばかりだったそうです。腕には自信があったでしょうが、コンピュータには全く縁がなかったわけで、ずいぶん苦労してプログラミングを覚えたんだろうと思います。そして、その後の30年間は、父とこの機械はずっと名コンビでした。

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父はこの機械に別注でエンドミル加工のユニットを付けさせています。今では当たり前となっている技術ですが、当時は珍しかった旋盤による複合加工を可能にしたものです。これこそが、四角いものでも何でも、丸棒から削り出す、栗原精機の独特の加工方法の原点となっています。

写真は、ラジコンカーのパーツですが、それを削り出している途中の様子も見てみてください。元の丸棒からはずいぶんと変わった形に出来上がっているのがお分かりいただけるでしょうか?

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新たな栗原精機の出発

晩年まで仕事に没頭し続けた父ですが、会社の経営にはあまり興味がなかったのかもしれません。私は別の会社で技術職に10年ほど就いたのちに、家業を継ぐことになったのですが、正直、実家の商売はもっと儲かっているものと思っていました。工場を増築して、新しい設備を入れ、いつもいつも忙しそうに見えまていましたから。経理を任されていた母親の苦労を初めて知ることになります。

父と二人で銀行に挨拶に行ったとき、帰り際、息子さんだけに話があると言われ一人で出直すということがありました。「お父さんには夢もあるし確かな腕もあるけど、それだけじゃ会社はやっていけない。これからは資金繰りやら事業計画やらちゃんと立ててもらわないと、こちらとしても応援できなくなる」と告げられました。

間もなくして、父は経営の一線からは退き、私が社長に就き、弟を常務に、もともと工場長だった私の幼なじみを専務にすえて、新たな栗原精機を出発させることになりました。父からは「3本の矢」の逸話を持ち出されて、力を合わせて会社を盛り立てていくように言われたのを覚えています。まあ、そこからも決して順風満帆というわけではありませんでしたが、リーマンショックも何とかぎりぎり乗り切って、今日に至っています。

基本的な仕事のやり方は今も変わりません。機械が変わり人も変わっても「丸棒から異形削り出し」にこだわってきたことが、結果、正しかったのかなと感じています。

創業者たる父が旅立って1年。バタバタと日々を過ごしているうちに今日を迎えてしまいました。気持ちに整理もついて、そろそろ、ここらで一区切りをつけて、もう一歩、新たな前進を図らなくてはと思っています。3本の矢は、束ねていれば確かに折れないかもしれませんが、1本ずつ弓にかけていかなければ的を射ることはできない。そんな考えに至っています。

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